戦後の1945年9月のことであった。ニューマンはマンチェスター大学の数学科における上層部に任命されることになった。これにより、ニューマン自身がやりたい研究を思うように行うことが可能になった。そこで、ニューマンはチューリングに協力してもらうように話をつけ、ジョン・フォン・ノイマンが考案したアイディアをベースに、プログラム内蔵式コンピュータを開発しようと試みた。そして、その研究を始めるにあたって、ノイマンに手紙で知らせることにした。ニューマンとしては、最初はノイマンに却下されるのではないかという不安があった。もともとノイマンが考えたものであるので、それを利用すると言えば、ノイマンはどう考えるか、ニューマンは不安であった。しかし、実際に手紙を送り、その返事を見てみると、ノイマンは是非自分のアイディアを使ってくれとの内容で、快く承諾してくれた。ノイマンの了承も得たところで、ニューマンは王立協会計算機研究所をマンチェスター大学に導入し、チューリングを副所長にお願いした。